【映画時評】 真説・ゾンビランドの黙示録/フランシス・フォード・コッポラ監督 『地獄の黙示録』/Tickin' Dia Drops vol.1

2013.11.28 Thursday
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    3連休のデザフェス&文フリのTickin' Dia Drops名義の出店が目前にせまっているのですが、今回お売りする新刊批評誌のめだま特集「羊谷&籠城の噂の美人作家のお顔を批評します!」「池袋最強グルメ15選決定版」「サイゼリヤで美味しいものを探してみた」に続く特集第4弾がこちら、現代とはなんぞやと問う座談会「真説・ゾンビランドの黙示録」です。


    実はというほどのことでもないのですが、今回の批評誌の裏メインディッシュにあたるこの座談会、正直に云ってあまりお勧めできるものではありません。というのも、複雑すぎるというか、高度すぎるというか、ふつうの雑誌や専門誌の座談や対談のたぐいとは比較にならないほどの熱量で作られているのですね。ちなみに、目次はこのとおりとなっています。


    1.粗悪さの蔓延と大量タスク社会

    2.ゾンビはポストモダン以後実在する

    3.「バカッター」騒動とオバマ大統領の誕生

    4.情報環境に自然淘汰されるな!


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    昨夜のハロウィンでもゾンビのモチーフをいれているひとたちが街で多く見受けられましたが、今年代は空前絶後のゾンビブームで、とりわけ、ロバート・カークマン原作のテレビドラマ(!)『ウォーキング・デッド』が放映開始してからというもの、本場アメリカのみならず、世界の市民権をすでに得たかのようにわれわれの社会に浸透していっています。


    そもそも、何故僕がゾンビ映画史を追いかけることに熱中しているかというと、実はそれがアメリカの歴史展開の骨をもち、20世紀におけるポストモダンの深化と現代への飛躍を端的に体現しているからなんですね。

    そして、ゾンビ史的にはジョージ・A・ロメロ監督による近代ゾンビの誕生と流行、僕の歴史観ではゾンビのポストモダン化、そして、ダニー・ボイル監督『28日後…』以降の全力疾走ゾンビの登場と情報化の問題にこの座談会ではひとつの章があてられています。

    もちろんその歴史展開がどのようにサイゼリヤや「バカッター」騒動、オバマ大統領と繋がるのかがこの座談のもっともスリリングなところなのですが、それは本誌をお読みいただくとして、この記事では、近代ゾンビの誕生と流行、フランシス・フォード・コッポラ監督のヴェトナム戦争映画『地獄の黙示録』のゾンビ史的批評、そして、あの"ゾンビ"たちが現実に存在するということについて僕が独り語りしている章を全文掲載します。

    興味をもたれた方は、続きはぜひ、実物で!




    【追記・批評誌「Tickin' Dia Drops vol.1」の購入方法】

    現在、批評誌やほかの手製本、ヴィジュアルノベルなどの商品はわたしたちのオンラインストアでのみの販売となっております。お手数ですがこちらからご注文をおねがい致します。





    2.ゾンビはポストモダン以後実在する




    羊谷 近代社会以降の疲弊感とそこから逃れたいという脱人格的な欲望について皆で話してきましたが、最近僕はこの現象を〈ゾンビ〉という言葉で対象化できるのではないかと考えています。というのも、人格化、あるいは、文明化をひとたびはたしてしまえば、自然、あるいは、野蛮というのはじぶんの外部としてしか蘇りえず、法の概念や社会規範を理解しないもともとの野蛮人とはどうあがいても異なるからです。つまり、前世紀末に発生したのはよくいわれる〈動物化〉ではなく、〈ゾンビ化〉であったと(笑)、そして、人類史における〈ゾンビ〉氾濫の最たる具体例が、1960年代末以降のニューエイジ思想の興隆だったと僕は考えています。

    まず、ふつうの意味でのゾンビはもともとコンゴの民間信仰のもので、それが奴隷貿易で中南米地域にブードゥー教というかたちで伝播していくあいだにその原型もつくられたのですが、司祭の呪術で蘇らされた特殊な奴隷程度の存在だったブードゥー・ゾンビがいまの姿になるまでには2度の時代変貌を遂げる必要がありました。ひとつは、1978年のジョージ・A・ロメロ監督の代表作『ゾンビ Dawn of the Dead』の社会的成功がそうで、これによりわたしたちのよく知る吸血スタイルのゾンビが終末論的な世界観をともなって定着し、今度は、2002年のダニー・ボイル監督の出世作『28日後…』の成功で全力疾走をする強烈なすがたがロメロ・ゾンビ像を刷新しました。ちなみに、旧世代ゾンビはおどろくほどに貧弱で、作中人物たちにも雑魚の群れとしてあつかわれていることは今日一見に値します(笑) そして、結論を先にいってしまえばこれまで議論してきたことの近代化の問題がひとつめのゾンビの氾濫に対応し、現代化の問題がふたつめの新世代ゾンビの誕生に対応します。つまり、社会的に流布しているあの旧世代ゾンビはあくまでポストモダンの特殊な時代の産物であり、そしてかれらが何故走りはじめたかについてはひとえに情報化し、生身の肉体とその腐敗、損傷、そして死を棄却したからなんですね。

    1978年公開の『ドーン・オブ・ザ・リビングデッド(以下、ドーン・オブ)』の邦題が「ゾンビ」とされていることからもわかるとおり、社会的にはこの作品がゾンビ映画史の金字塔とされているのですが、実際には、1968年に『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(以下、ナイト・オブ)』というモノクロ低予算映画がおなじロメロ監督に製作されており、僕の判断ではこちらの方が優れています。つまり、ロメロ監督の『ナイト・オブ』と『ドーン・オブ』のあいだには約10年間のブランクがあり、そのあいだにカルト的な人気を博しつつあった『ナイト・オブ』に眼をつけたプロデューサーがゾンビ映画の続篇を製作させてヒットに導いたという経緯があるのですが、当然、社会的なマクロな次元の変化がこのあいだにはっきりと生じ、かつ、ロメロ監督の『ナイト』になんらかの先見の明があったことのふたつがここで推測されます。

    まず、社会的な成功をおさめた『ドーン・オブ』ですが、構造的にはあくまで映像のショックで構成したナンセンスな娯楽作品で、質は低いものです。それに対して、前作の『ナイト・オブ』もあくまで娯楽作品ですが、奇妙なおもしろさが内容にはあり、構造的にも一応は観れるものとなっています。そこで、内容的なおもしろさとはなんぞやという話になるわけですが、僕の理解ではそれがポストモダンの時代性の反映ということになります。この時代の表現については僕のブログの『スローターハウス5』の批評記事で書いているので詳述はしませんが、結論だけをいえば、原子構造や放射線といったミクロな領域にまで拡大していった人間の認識領域と、科学兵器や技術がそれにともなって抱えこんだ膨大なエネルギー、そして、それらに対して生まれた個の破壊的な狂気性にほかなりません。芸術表現のわかりやすい例は同時期のイギリスで放送がはじまった『空飛ぶモンティ・パイソン』で、スケッチの枠を踏み壊していくしっちゃかめっちゃかな狂気性の構造表現がそうです。そして、娯楽作品である『ナイト・オブ』では、カニバリズムの描写や反人種差別的な設定、そして、民家に閉じこめられた登場人物たちがほんとうに生存したいのかどうかもわからない程に徒なふるまいを奇妙に繰りかえし、何のドラマもパニックもロマンスもホラーも生まずに死んでゆく奇妙なちぐはく感としてあらわれます。僕はこれをポストモダンの内容表現として解釈し、評価します。

    そして、本題の〈ゾンビ〉に話がようやくはいるわけですが、まず、ロメロ監督自身がゾンビというものを革命の比喩としてつかっており、あるインタビューでは、1960年代のカウンターカルチャーの革命の挫折に対する苛だちが『ナイト・オブ』の製作動機で、反戦運動や反黒人差別運動で敗れていった革命の亡霊があのゾンビの正体だったと語っています。思うにこれは真実を射たもので、この慧眼とポストモダン的な内容、そして、60年代末から深刻な泥沼化をきわめたべトナム戦争の進行と社会的な影響をふまえないことには『ドーン』の社会的なヒットがわかりません。それというのも、この時代の反体制的な社会風潮はテレビというあたらしいメディアの特殊性によるところが大きく、歴史上、戦場にはじめてカメラがはいり、戦闘映像がお茶の間に流れたベトナム戦争の影響は社会的にも個に対してもきわめて大きかったのです。

    ロメロ監督の『ドーン・オブ』とほぼ同時期につくられたヴェトナム戦争映画で、今日におけるこのジャンルの金字塔的作品とされるのがフランシス・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録 Apocalypse Now』です。この作品は驚くほどの賞賛と尊敬をあつめ続けている映画で、僕自身も優れていると思いますが、構造的にはあくまで娯楽映画のうちにとどまっているものです。しかし、原題が示すとおり、アメリカの現在をベトナム戦争期に舞台をうつして戯画化し、対象化したという意味ではきわめて野心的で、歴史的な意義の深い作品であったことはまちがいなく、ポストモダンの〈ゾンビ〉の実際の氾濫を僕がまじめに主張する根拠もこの作品のこんな場面にあります。

    コッポラ監督の『地獄の黙示録』はイギリスの作家ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』を翻案した作品で、ベトナム戦争末期、軍を脱走し、カンボジアのジャングルに独立王国を築いていたカーツ大佐の暗殺命令を受けたウィラード大尉が、任務遂行のため仲間とボードでジャングルを進みながらさまざまな米軍の毀れかたを眼にしてゆくお話で、起承転結のはっきりとした筋はありませんが、クライマックスのカーツ暗殺の直前には、彼が捕えたウィラード大尉に自身がなぜこのような独立王国を築いたのかを穏やかに説くこんな場面があります。いわく、特殊部隊にまだいた頃、収容所のこどもたちに小児麻痺の予防注射を腕に打つことがあった。すると、老人が泣きながらあとを追ってきて、ベトコンが代わりにこどもたちの腕を斬り落とし山のように積んでいったと喚き訴えた。カーツは続けます。そのとき、ダイヤモンドの弾丸で額を撃たれたようにわたしは悟った。何という才能をもった連中なのだろうか。完璧で、純粋で、明確で、微塵の迷いもない。何の感情も興奮もなく、原始的な殺人本能でひとを殺せるやつらだ、と。そして、最後にこう呟きます。理性的判断が敗北を招く。 

    『地獄の黙示録』にかぎらずベトナム戦争映画全般にいえることですが、現地のひとたちやベトコンの兵士をじぶんたちとおなじ人間のようにはほとんど描きません。ゆいいつの例外は娼婦ですが、言葉を話し、感情を持ち、思考を操る、すなわち、心をかよいあわせられる存在としては描かれず、奇妙なひとならぬひとや白痴を視る差別的な視線だけがそこにはあります。しかも、そういったものたちに心底恐怖し、夢を抱き、挙句、カーツは「爆撃機でここを殲滅せよ」と秘密の書きおきをウィラードに遺しておいたのです。西欧人の典型的なエリート像であるカーツ大佐のこうした二重、三重に屈折した欲望はいったいなんでしょうか? さらに、ウィラードはそんなカーツの思想に共感し、また、最後まで生き残った部下は旅の途中でこころを毀し、最終的にはほとんど現地のひとたちとおなじ個を持たないすがたと振舞いをするようになってしまいます。人間の個のこの毀れかたと野生化はいったいなんでしょうか?
    ぱちぱち! ぱちぱちっ ぱちぱち!

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    Chika Hitujiya

    羊谷知嘉
    ・作家
    ・批評家
    ・文芸創作アドバイザー
    ・哲学対話コーディネーター

    緒方勇人
    ・1988年生まれ
    ・2009大学読書人大賞最優秀賞
    ・立教大学院文学研究科比較文明学専攻在籍

    批評型自動機械 CRibot
    ・1000種の批評をめざします

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